月の子供達





この男の目覚めはどこか神聖なものがある。

ピクリとも動かない深い眠り。
耳をすませてようやく聞こえる程度の寝息。
血がめぐる事を忘れたかのような、人形のように白い肌。
初めてこの男の寝顔を見た彼女に死んでいるのではないかと思わせたほどだ。
しかし、彼女は知っている。
これから男は死者から生者へと転じるかのように目覚めることを。
だから彼女は儀式を行う。
男に心地良く朝を迎えてもらうがために。
手始めに彼女はカーテンを開けた。
朝のやわらかな陽射しが男にあたる。
次に彼女は窓も開けた。
部屋に入ってこようとする優しい風に彼女の髪はゆれ、
カーテンがたなびき、光が男をなでる。
そして彼女は待つ。
儀式の終わりを。
やがて光は男の中を生で満たした。
光をその身に受け、人形のような白い肌に血がめぐり始める光景は、
まるで光が男の中に入っていったのでは、と思わせる。
もうすぐ、このいつもの儀式は終わる。
彼女はただそれを待つ。
男はもう死者ではなかった。
無論、人形でもない。
男は生者としてベッドに横たわっている。
彼女の儀式は成功している。
あと、儀式の残りは二つ。
それは───。
おもむろに男の目が開いた。
目覚めだ。
男はその身を起こし、彼女を見つけ、
朝の陽光のような笑みを浮かべながら言った。
「おはよう、翡翠。」
彼女はその笑みと言葉に、彼女らしいやわらかな笑みを浮かべて言った。
「おはようございます、志貴様。」
───これが彼女と男のいつも朝。

時に。
彼女の名は翡翠と言い、
男の名は遠野志貴と言う。


「ん・・・あれ?今日はまだ翡翠は来てないのかな」
そう思って窓をみるとカーテンが開いて陽光が入り込んでいる。
いつも俺の起床時間より早くきてカーテンを開け、
光を部屋に入れてくれるのは彼女だ。
って事はもう翡翠は一度来てくれたんだろう。
よく見るとカーテンが少し揺れている。
どうやら窓がわずかながら開いてるみたいだ。
さて。
目は覚めたもののなんとなくベッドの温もりが心地良い。
「んー、もう少しまどろんでよ。」
ちなみに、二度寝するつもりは無かったりする。
ってか一度目が覚めきったらなかなか二度寝は出来ないだろう。
でもなんでだか、まどろんでいたい。
こういう時にはベッドに何か怪しげなモノが棲みついてるんじゃないかと思ってしまう。
例えば───、
例えば、寝ろ寝ろ妖怪「ケーム・リタクコ・ハクサーン」とか、そのパワーアップ版の
ダウンしちゃえ魔神「チューシ・ヤウツコ・ハクサーン」とか。
───何も考えなかったことにしよう。
ちなみに今、一瞬想像して背中に汗をかいてしまったのは内緒だ。
多分冷や汗──いや、絶対冷や汗。
と。視界の隅に黒いモノが映った。
それから視線を感じたので見てみると黒いモノは子猫だった。
「あはは、なんでもないよレン」
なんとなく気まずいものを感じたので黒い子猫──レンをなでながら弁明すると、
レンは何事も無かったかのように、ぷいと向こうを向いてしまった。
それでも何処かへ行ってしまわないあたり、
俺はまだこのお嬢様をなでていて良いらしい。
視線をレンから外し、ベッドのぬくもりを味わいつつ
真正面にみえる天井をぼぉーっと見る。
ちなみに手は視界の外にレンごと消えてしまったがなで続けている。
まるでそれが呼吸することと同じであるように手はなで続けていた。
ふいに。
するっと手の中の感触が無くなった。
「あらら。お嬢様はお出かけか」
意味も無く天井を見たまま呟く。
お嬢様も行ってしまったことだし、おとなしくまどろんでいるとしますか。
レンをなでていた手を布団の中に引っ込めようとすると、
「にゃー」
と言って手の下に潜り込んできたものがあった。
たぶんレンだろう。
先程までレンをなでていたためか反射的に手がそれをなでる。
と。
「にゃー♪」
喜んでいるような声が聞こえてきた。
もう少しなでていると、
「にゃー、気持ちいいにゃー」
なんて聞こえてきた。
───何かがおかしい。
確かに今日は目の前に翡翠がいないほど早く目が覚めた。
───いや、そんなことじゃなくて。
朝からかなり恐怖な事を考えた。妖怪とか、魔神とか。
───いや、そんなことでもなくて。

───レンってしゃべったっけ。

レンは猫の姿をとる夢魔だから話しをしても不思議は無いはずだ。
無いはずだ、無いはずなんだけど───レンって本当に無口なんだよな。
さっき聞こえてきた
「にゃー、気持ちいいにゃー」
なんて絶対レンは言わないし───って、なんでまた聞こえてきてるんだ?
そういやさっきからずっと反射的になでっぱなしだったっけ。
レンじゃ無いとすると、それじゃなんだ?
猫、猫、猫。
やはり猫と言って思い浮かべるのは日本人としてはあの青い悪魔だろうか。
あの丸みを前面に押し出して優しげな印象を与えるボディを持ち、
普段は温厚なのに一度コワれたら凄まじいコワれっぷりを見せてくれるあの悪魔。
敵を撲滅させるために地球ごと壊そうとするあの悪魔。
でもいくらなんでもそれはありえないか。
他に猫、猫、猫。
一部の人間が泣いて喜びそうな猫耳とか。
さらに一部の人間が血涙流して喜びそうな猫耳メイドとか。
他に猫、猫、猫。
この月姫の世界ではアルクェイドか。
いや、秋葉も確かそうだったな。
アルクェイドはおもいっきり猫アルクなんてモード持ってるし。
ああ、そういえば離れの化け猫疑惑もあったっけ。
秋葉はと言うと文化祭での猫又事件がある。
いや、ただ単に秋葉が役に入り込みすぎてただけであって、
俺の中で秋葉のイメージが音をたてて壊れていっただけで───。
───そういやまだ秋葉に猫又を教え込んだ奴に“お礼参り”してなかったか。
ちっ。
一瞬七夜の血が騒いだ気がしたけど多分気のせい、
と、言うことにしておこう。
とりあえずアルクェイドか秋葉のどちらかまで予想がついた。
ここまでくるともう早い。
間違いなくアルクェイドだ。
あの秋葉が俺の近くで
「にゃー♪」
なんて言うはずが無い───って、また聞こえてきたよ。
とにかく、秋葉じゃ無いんだからそこでなでられているのはアルクェイドだ。
っていうかアイツなら今みたいな状態も平気でやりかねん。
ちなみにこうやって考えている間にも手はずっとなで続けているので、
「はにゃー、至福の時だにゃ〜」
ってな声が聞こえてきた。
さて、そこでなでられているのがアルクェイドだとわかった事だし、
「いつまでなでてればいい?」
と聞いてみる。
「このままずっと、一日中でもいいにゃー」
とのお言葉。
「おいおい、ウチの人間に見つかると困るんだけど。今なら翡翠とか」
「翡翠なんかに私のはっぴーたいむは邪魔させないにゃー」
「いやそれだけじゃなくてさ、アルクェイド。秋葉に見つかるとヤバすぎるんだけど」
 「なにがだにゃ?」
一瞬間があったのは気のせいだろう。
「こないだ街中で一緒にいたのを知られたときなんて、
 翌日のほぼ丸一日中秋葉に説教食らったんだぞ。
 食事のときもありえないぐらい細かくマナーを注意されたし」
「しかたないにゃ。マナーがなってないんだにゃー」
「うう、たしかにそれも否定できないんだけど、
 それよりもっとひどいのはお前が窓から部屋に入ってきた時。
 もう少しで地下室に閉じ込められるトコだったんだぞ。
 その時なんかひたすら逃げ回って、それでもやっぱり追い詰められて
 終わった、と思ったときに翡翠と琥珀さんに助けてもらってなんとか事なきを得たんだよ」
ちなみに翡翠が俺の弁護をして時間を稼ぐ役、琥珀さんが話をうやむやにしてしまう役を担当していた。
もちろん二人が完璧なコンビネーションを発揮したのは言うにおよばず。
「あの時は秋葉が鬼か悪魔のように見えたよ」
「ふーん・・・にゃ」
な、なんかアルクェイドのヤツ棒読みになってるような気がするけど。
「でも、さ」
「にゃ?」
「そういう秋葉でもさ、うん、地下室行きとか言われたら確かに恐いけどさ、
 それはそれだけ俺の事、大事に想ってくれてるんだなって思えて、
 やっぱりそんな秋葉も含めて、可愛いなって思ってる自分がいるんだ」
変かな、と付け足す。
「・・・にゃー♪」
「やっぱり志貴は妹思いね」
「「なっ!?」」
ちょっと待て、今誰の声が聞こえてきたんだ、おい。
という思考がめぐる中、反射的に上半身ががばっと起きる。
部屋を見回すには十分な高さを高さをもった目がとらえた光景、そこには
俺の手の下───ちなみに今だなで続けている───に頭だけベッドにのせている猫又姿の秋葉と
なぜか開いているドアの枠に廊下側から身をのりだしているアルクェイドの姿が見えた。
「え、なんでアルクェ」
「なな、なんで貴女がここにいるの!?地下室よりタチの悪い地下迷宮に落としたはずなのに!」
───俺は言葉をかき消されたことに悩むべきなのだろうか。
それとも秋葉の発言に恐ろしい部分があるところに悩むべきなのだろうか。
どちらにせよ、なんかむなしい。
「うん、そうよ。でもなんかあっさり出れちゃったから最初に来た志貴の部屋にまた来たんだけど、
 入ろうとしたら志貴がアルクェイドって誰かと話してたから外で待ってたの」
えらい?とアルクェイドが言ってくる。
見れば秋葉は歯噛みをして悔しがっている。
む。
なんだか危険な感覚がしてきた。
いい加減になでてる手を止めよう。
ついでにいつでもベッドから抜け出せるように体勢をととのえる。
「・・・あー、アルクェイド。なんで地下室ならぬ地下迷宮なんかに?」
部屋には入ってきたもののドアのところで立っているアルクェイドに聞いてみる。
「知らない。いつものように志貴の所に来たら妹が入ってきて気がついたら地下に落とされちゃったのよ」
「いつものように、ってもしかして窓から入ってきたのか?」
「もちろんそうに決まってるじゃない」
「翡翠には見られた?」
翡翠に知られたらしばらく朝からギスギスするからやばいんだけど。
「んーん。あ、そうそう、今日は私がカーテンを開けたんだよ」
翡翠のまねー、となんだか楽しそうにアルクェイドは言う。
けど、俺には何かがひっかかる。
だとすれば翡翠が今日まだ一度も部屋に来ていないと言う事なのか?
あの翡翠が?
唐突に嫌な予感が働く。
「アルクェイド、翡翠に何かしてないよな」
「どういうことよ。私がそんな何かをしてそうに見える?」
「いや、お前ならやりかねないし」
「失礼ね、何もしてないわよ」
「だとしたら風邪でも引いたのかな、翡翠。
 でもそれだったら琥珀さんが来て教えてくれるよな・・・・・・って、秋葉?」
アルクェイドとの会話と考えの方に気がいってて秋葉の事を忘れてた。
秋葉は顔を下に向けているため髪の毛が邪魔をして表情をうかがいとることが出来ない。
「あの・・・秋葉さん?」
それにどこか恐ろしいものを感じてベッドから降りて恐る恐る声をかける。
「ふふふふふふふふ・・・・・・琥珀の考えた兄さんに近づく作戦、
 “ご主人様愛してるにゃん、コハクの子猫大作戦”を琥珀から聞き出して、
 今日行おうとしていた琥珀に代わって作戦を決行したのに。
 翡翠の目覚まし時計に細工し、琥珀はぐるぐるまきにしてお邪魔虫を排除したのに。
 イレギュラーな邪魔者が出てきて、地下迷宮に放り込んだのにまた出てきて・・・」
あいかわらず何にツッコミを入れるべきか悩むな。
翡翠が今日こなかったのは秋葉の仕業だということ。
諸悪の根源はやっぱり琥珀さんだということ。
それと、秋葉が作戦を決行したんだから、
“兄さん愛してるにゃん、アキハの猫又娘大作戦”になるのではなかろうかということ。
「うまくいけば兄さんとあんな事やこんな事までする予定だったのに!
 ・・・これも全ては兄さん!あなたのせいです!」
「え、俺のせい!?」
「そうよ!兄さんがもっとしっかりとしてる人だったら良かったのよ!
 優柔不断に複数の女の人とつきあうからいけないのよ!」
む、たしかにそれを言われると痛い。
しかしゲームの主人公にそれは禁句じゃなかろうか。
ってかそれだったらプレイヤーの方が悪いだろうが!
等と思いつつベッドをはさんで向こう側にいる秋葉を見る。
秋葉はたっぷりの威圧感を持って立ち上がり口を開いた。
「さあ兄さん覚悟して。私が私好みの男に教育してさし上げますから!」
やばい、やばすぎる。
このままだと間違いなく地下室行きだ。
「ア、アルクェイド!見てないで助けろよ!」
ドアのところにいるアルクェイドに助けを求める。
するとアルクェイドは心底驚いたような顔をして
「え?兄妹の仲を深めるじゃれあいじゃ無いの?」
なんてのたもうてくれやがりましたよ。
「ちっがーう!このままだったら俺、地下室行きになってしまうって!」
「うーん、でも志貴は一度行った方が良いんじゃない?いい勉強になるかもよ?」
「なるかあ!」
とここで気づく。
さっきも似たような展開があったよな。
ってことは秋葉は、やっぱり。
思ったとおり、下を向いてぶるぶる震えている。
ぜーーったいさっきよりマズイ気がしておもわず後ずさりをする、が。
すぐに壁にぶつかってしまってもう下がれない。
壁のほかにあるのは窓だけ。
今回はロープがわりのものがないから脱出するのは危険だ。
というわけで部屋を出ようとするには秋葉の向こうにあるドアにたどり着かなきゃいけない。
秋葉が下をむいてぶるぶる震えている間にさっさと───
「・・・私が目の前にいるというのに兄さんはこの人と話すのね。私を無視して・・・兄さん!!!」
秋葉の髪の色が赤くなったのは絶対気のせいじゃないだろう。
なんというか、赤毛の猫又姿は始めて見るな。
状況が状況なので一行にして閑話休題。
というわけでドアからの脱出は100%無理。
だからといって窓から逃げようにもロープがない。
あー、もう悩んでいるヒマはない!
逃げなきゃ、地獄よりタチの悪そうな所へ連れてかれちまうし。
いや、その前にここにこのままいたら殺されかねないし!
「だーっ畜生!なるようになれってんだ!」
俺はそう叫ぶと窓の正面に立ち、窓を開けながら窓枠に足をかけ、
跳んだ。
「兄さん!?」
秋葉の戸惑う声が背中越しに聞こえてくる。

俺は跳んですぐに後悔していた。
おとなしく窓からすぐ下へ飛び降りていれば良いものの、
俺は前方上方に向かって思いっきり跳んでしまっていたのだ。
───あー、骨折するかも、これは。
空中、一瞬浮いているような感覚が得られる跳躍の最高点でそんなことを無責任に感じていた。
その後すぐに背中がぞくっとしはじめたときには、俺は体を抱きかかえられていて、
ドンと、背中にまわっていた二本の腕越しに着地の衝撃を感じる。
「志貴、いくらなんでもさっきのは無茶じゃない?」
俺が部屋の中にいた時部屋の外にいたはずのアルクェイドが俺をおろしながら言う。
「うん。ごめん、助かった」
その事を別に不思議に思う事なく感謝の言葉を口にする。
まあ、こいつはこういう奴なのだ。
なんだかんだ言って困ったときには助けてくれる、お人好し。
こういう奴なのだ、アルクェイドは。
「うふふふ・・・お二人でおあつい空間をおつくりね、兄さん」
声はなぜだか嫌って程はっきりと聞こえてきた。
「窓から飛び降りた程度でこの私から逃げ切れるとでも思っているの?」
その声は俺の体に染みこんで嫌な汗をかかせる。
見れば二階の窓から赤い髪を風も無いのになびかせている秋葉がみえた。
目もあのちょっとイッてしまってるような目になってるよ・・・やば。
俺がそう思った次の瞬間、秋葉は空中に飛び出していた。
「あら、志貴、妹来ちゃうよ」
「そんなの見りゃわかる!逃げるぞアルクェイド!」
俺は秋葉を背に全力で駆け出した。
「なんだか鬼ごっこみたいだね、志貴」
と言ってアルクェイドは楽に俺について来て───、
「待ちなさい兄さん!」
秋葉は少し遅れて土煙をあげながら俺を追っかけて来た。
───あの勢いだとぜーったい追いつかれたら殺されるって。
というワケで、激しい兄妹の鬼ごっこは始まった。



ぺろっ。
「ん・・・くすぐったいです・・・」
ぺろっ。
「ひゃう・・・くすぐったいです・・・あ・・・レンさん」
むくりと上体を起こす。
まだ頭がうまく回転してくれない。
黒猫のレンさんが寄って来てくれたので反射的になでる。
何か大事なことを忘れているような感覚。
膝元で丸くなった黒猫をなでながらも必死にそれを思い出そうとする。
大事なこと。大事な───事。
思い出そうとしても思い出せない。
なんとなく部屋を見回す。
いつもどおりの自分の部屋。
部屋を見回したからといって忘れたことを思い出せはしない。
ある一点を見るまでは。
そこには光がカーテンの隙間を通って必死に部屋に入ってきる光景があった。
「あっ!」
唐突に忘れていたことを思い出す。
「ごめんなさいレンさん、私、急がないと!」
膝元の黒猫を乱暴にならないように、しかし急いで横へやる。
それを確認してすぐベッドから降りすぐに着替え始める───急がないと。
不幸中の幸いと言うべきか寝癖はついていない───急がないと。
着慣れた服をすぐに身につける───急がないと。
着替え終わったのですぐに部屋を飛び出し廊下をかける───急がないと。
階段をあがり目的の部屋の前に立つ。
ここで一度大きく深呼吸。
部屋の中のあの人に私のこんな所見せたくは無いから。
あの人にいつもの気持ちのいい朝を迎えてもらうためにも。
「すー・・・はー・・・すー・・・はー・・・」
よし、呼吸はまだ少し乱れているけどなんとか落ち着いた。
コンコンとドアを軽くノックする。
一瞬あの人を思い浮かべてしまい、さっき落ち着かせた呼吸がまた少し乱れかけた。
それでもなるべく落ち着いた声で話す。
「失礼します」
ドアを開ける。
そこにあの人の姿は無かった。
「え・・・」
思考が停止する。
ベッドで眠るあの人───けれど今あの人はそこにいない。
永遠に眺めていたいと思わせる、
あの彫像のような寝顔をするあの人───けれど今あの人はここにいない。
太陽から命を注ぎ込まれたように起きるあの人───けれどあの人は・・・。
私の思考は部屋の奥から一瞬だけ流れてきた風に髪をなでられる事によって正常に戻った。
部屋の窓は全開。
おもわず駆け寄って外を見てしまう。
そして見つけた。あの人を。
あの人はアルクェイドさんと一緒に走っていた。
その後ろを猫の格好をした秋葉様が追いかけている。
私が今日寝坊してしまったからあの人があんな目にあってしまったんだろう。
はあ、とおもわずため息をついてしまった。
そんな時、足に何かが触れた。
見ると触れたのは黒猫の前足だった。
足元の黒猫を抱き上げて一人ごちる。
「ねえレンさん、私が、私が悪いんですよね。
 私はあの人にいつもの朝を迎えてほしかったのに今あの人はあんな目にあっていて。
 私がいつものように起きれなかったためにあの人は他のヒトと一緒で。
 ・・・うん、私だって他のヒト達が本当にあの人の事を想ってるのは知ってるんです。
 でも・・・私だってあの人の事他のヒトに負けないぐらい想っているのに・・・」
ほほが冷たい。
気がつけば私は涙を流していた。
その事を気づいた私は本格的に泣きだしそうになった。そのとき、
ぺろっ
「レンさん・・・?」
ぺろぺろ
「ありがとう。慰めてくれているんですね。
 それにさっきは起こしてもらいましたし、私、レンさんにお世話にばっかりなってますね」
黒猫はじーっと私を見つめている
「でもなんで私はずっと眠りつづけていたんでしょうか?
 不思議です・・・たしか昨日は夕食を頂いた後にすぐに眠気が襲ってきて、
 不覚にも眠ってしまって今に到って・・・」
何かがひっかかっている。
「夕食を頂いた後・・・夕食・・・姉さん?」
そういえば本来私が何かあったときは姉さんがいつも様子を見に来るはずなのに今日は来なかった。
姉さんは何かを知っている。
そう私のどこかが断言していた。
黒猫を足元におろして言う。
「ごめんなさいレンさん。私、これから姉さんの所へ行かなきゃいけないから」
私の言葉を聞いて黒猫のレンさんはドアの所へすばやく移動して私の顔をじっと見つめた。
「姉さんの場所に案内してくれるんですね。本当にありがとうレンさん」
しばらく黒猫の誘導についていくと姉さんの部屋の前まできた。
とりあえず一応ノックする。
「姉さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
言いながらドアを開けた。
そこには、
「ひ、翡翠ちゃーん!」
と言う、ロープでぐるぐる巻きにされて虫みたいになっている姉さんがいた。
「姉さん、一体何やっているの?」
「秋葉様にいきなり襲われてぐるぐる巻きにされちゃったのよお!」
「姉さん、聞きたいことがあるんだけど」
一瞬姉さんの顔に大きな水滴が出たのは見逃さない。
「な、なにかなあー?そ、それよりこのロープ解いてくれないかなあ、なんて」
「駄目です。聞きたいことを話してくれるまでは」
強く言ってみる。
姉さんの顔に浮かんだ水滴が数を増やしたのも見逃すわけにはいかない。
「え、え、えっと何かな?た、たとえばほれ薬の作り方とか・・・」
ほれ薬の作り方は惹かれるものがあるけど、ここで策士の姉さんに流されてはいけない。
「・・・姉さん」
「な、何かなあ、翡翠ちゃん」
「昨日───私の夕食に薬を入れましたね」
「えっ、な、なんのことかなあ、お姉さんわかんない♪」
「・・・眠り薬」
「!?」
姉さんの時が止まる。
「さあ姉さん。何を企んでいたのか、それを聞かせてください」
「うう、翡翠ちゃんが恐いよお・・・」
「なんならもう少し恐くいきましょうか、姉さん」
「うう、翡翠ちゃんがいじめる・・・。
 白状しますうー、翡翠ちゃんに薬を盛って眠らせて、
 朝かわりに志貴さんの部屋に行ってご親密になる予定でしたあー・・・」
ワカメみたいな涙を流しながら白状する姉さん。
「ならなんで今ここでこうしているんですか」
「秋葉様にこの作戦を知られて・・・」
「今に到る、と」
「そういうわけなのよ。あの、ところで翡翠ちゃん、ロープ解いてくれないかなー・・・」
「───わかりました」
「やったあ、さすが翡翠ちゃん!」
「ですが次は無いですよ、姉さん」
キッと姉さんを睨む。
「うう、やっぱり今日の翡翠ちゃんはなんだか恐いよお」
ロープを解いていく。と。
「ああ、にしても秋葉様が今志貴さんとご親密になっているなんて・・・」
「いえ、それはないわ姉さん。
 志貴様はアルクェイドさんと一緒に外を秋葉様から逃げ回ってるから」
完全にロープを解く。
すると姉さんは立ち上がりながら
「うふふふ・・・秋葉様、この私をこのような目にあわした罪は重いんですよ」
等と呪いの言葉を放っている。
「さあ行きましょう!」
「え、何処へ?」
「それはもちろん秋葉様へ復讐・・・じゃなくて、志貴さんを助けてあげないといけないでしょ?」
「・・・はい」
でも、と勝手に口が動く。
「私も秋葉様やアルクェイドさんに何かお返しをしないと・・・くくくくくくく」
「翡翠ちゃん、キャラ変わってるキャラ変わってる」
「あ・・・」
姉さんが大きな水滴を顔に浮かべながら教えてくれた。
気がついて私の顔が赤くなっていくのを感じる。
「それじゃ行きましょう!」
「はい!」



目の前では三人の女達が対峙していた。
言うにおよばずアルクェイド、秋葉、シエル先輩の三人だ。
ちなみに俺はと言うとそのかたわらに座っていた。
何故かロープで上半身をぐるぐる巻きにされて。
逃げ出そうとすると
「志貴─────私達が」
「兄さん────逃がすわけ」
「遠野くん───ないでしょう?」
とこんな時に限って三人の息はぴったりだったりする。
うう、俺ってば主人公なのに・・・。
と言うわけでこの場から逃げれないからずっと座っている。
目からは滝のような涙を流しながら。
ああ、なんか虹が見えるよオカーサン・・・。
なんでこんなことになってるのかと言うと───


「止まりなさい兄さん!」
「だって。どうするのー?」
「だあー!止まれるかー!っていうかアルクェイド!なんでお前は楽しそうなんだー!」
「だって、鬼ごっこみたいで楽しいんだもん」
こんな会話を続けながら俺達はひたすら屋敷のまわりをぐるぐる走り回っていた。
そして門の前を通るたびに外への、自由への誘惑に駆られる。
確かに門の外までは秋葉は追って来ないかもしれない。
が、そうなると今度は家に帰る事が出来なくなってしまう。
もちろん、逃げ続ければ逃げ続けるほど秋葉の怒りは増していくのは容易に予想が出来ることだ。
───いや、
今の秋葉なら俺が外へ逃げても追っかけてくるかもしれない。
猫又のカッコしてるのも忘れてる感があるし。
翌日のニュースにでも映像付きで、
『今日街中を走り回っている集団が見られました。
 今も暴走行為は続けられている模様です。
 それではここで現場からお伝えしたいと思います、現場の佐藤さん、お願いします』
『はい、現場の佐藤です。
 暴走集団が最初に目撃されたのは今朝9:30頃です。
 ご覧下さい、この街中に引かれた線を。
 暴走集団が通った後の地面は無残に土が見え、建物は破壊されています。
 ・・・え、どうした。!、
 み、みなさんあそこに見える土煙がどうやら暴走集団のようです!
 おい、こっちに突っ込んでくるぞ!逃げろおぉぉぉぉ!!!』
『ザーー・・・・・・』
『佐藤さん?佐藤さん!・・・あ、はい・・・。
 ・・・えー、佐藤の安否が気になりますが次のニュースに・・・うう・・・。
 佐藤さん・・・昨日結婚しようって言ってくれたのに・・・佐藤さあーん!!!!』
等と放送されるかもしれない。もしくは、
『ムホーッ!この猫又のコ、めちゃモエーーっ!!!!』
などと世のヲタを喜ばせることになるのかもしれない。
それでも俺は逃げていいのだろうか・・・。

1.くそっ、有彦の家までダッシュだ!
2.・・・最悪、有馬の家まで巻き込んでしまう。あきらめるか・・・。

あーもう!
選択肢が出てきてても選べないんじゃしょうがないだろうが!
ごほごほ。
えー、俺の方のことは俺で何とか解決するしかない。
俺は門からの脱出をあきらめそのまま走り続けた。
しかしこのまま走り回ってもらちがあかない。
どうするべきだろうか・・・。
「志貴!危ない!」
アルクェイドの声でハッとし、足が一瞬止まってしまう。
しまった。
後ろの秋葉に追いつかれてしまう───グサグサグサッ
───はい?
唖然とする俺の目の前に、何本もの剣が地面に刺さっていた。
あのまま走り続けていたら間違いなく俺は即死していただろう。
こんな事をするヒトは一人しか知らない。
「せ、先輩?」
「はい、そうです」
目の前の剣よりもう少し向こうにシエル先輩が立っていた。
「な、なんで俺を───」
「いえいえ別に私は遠野君が、
 “そこの吸血鬼と一緒にいる事にたいして怒ってる”んでは無いですよー」
自分の言ってることは逆さにしてとれ、と言って来る笑顔。
つまり───
「へえ、シエルって私と志貴に嫉妬してるんだ」
と、言うことだろう。
「なんでアナタごとき吸血鬼に嫉妬しなければならないんですか」
「あら、そう。んじゃ志貴にもっとくっついて良いんだ」
アルクェイドは言うが早いか俺の真正面に来て───つまりシエル先輩に背を向けて───
俺の背に腕をまわす。
「な・・・や、やめなさいこのあーぱー吸血鬼!
 遠野くんもなんで顔を赤くしているんですか!」
いや、胸とかあたってちょっと恥ずかしいし・・・。
アルクェイドが顔だけシエル先輩のほうに向ける。
「シエルってば嫉妬して無いんじゃなかったっけ?」
あきらかに挑発しているアルクェイド。
頼む、頼むからもう面倒な方向にもっていくのは止めてくれ。
そんな俺の願いはもちろん天には届かなかった。
「もうゆるせない、このあーぱー吸血鬼!
 ・・・アナタを滅させてあげます!!」
「へえ、シエル程度がこの私を倒せるとでも思ってるの?」
「うるさい!」
シエル先輩の手から剣が飛んでくる。
その剣はまっすぐに飛んでいるから軌道を読むのはたやすい。
アルクェイドの頭にまっすぐ飛んできている。
───あ、あのシエルさん、あなたから見てアルクェイドの向こう側に俺がいるんですけど・・・。
唐突に体が横に引っぱられる。
アルクェイドが俺を抱いたまま横に跳んだのだ。
「いきなりあぶないじゃない。志貴に当たったらどうするの?」
アルクェイドの指摘に俺も口をそろえる。
「そ、そうですよ先輩!あたったら危ないじゃないですか!」
「ああ、それは遠野くん」
一回言葉を切った後、恐いくらいキレイな笑顔で
「遠野くんが悪いんですから躾だと思って我慢してください」
シエル先輩は言った。
やっぱりそうなるんですか。
俺って主人公だよな、主人公なんだよな!
と言った心の叫びが聞こえなくも無い。
なんで俺って主人公なのに───
「では」
「志貴、来るわよ」
「───え?」
体が右に引っぱられる。
「なんでさっきからずっと二人はくっついているんですか!」
上に引っぱられる。
「いいじゃない別に」
そこいらの木の枝を蹴って急激な下への切り替えし。
俺の体は横に引っぱられ上に引っ張られ下に引っぱられで、
気分はまるでジェットコースター。
世界最凶のコースターのほうがまだ優しいかもしれないが。
「良くありません!離れなさい、アルクェイド・ブリュンスタッド!」
また右に引っぱられる。
「そうです、兄さんから離れなさい!」
「「「!?」」」
唐突にきた攻撃から逃れるため地面を強く蹴って勢いを一気に相殺し、止まる。
勢いこそ無くなるもののその反動は、正直吐きそうだ。
攻撃をしかけた乱入者はやはりとでも言うべきか、秋葉だった。
「ア、アルクェイド、離してくれないか」
「うん、妹の頼みだもんね」
いや、秋葉が恐いから離れたんだけど・・・。
「シエルさん、足止めありがとうございました」
「いえ、私は通りがかっただけですよー」
なぜかいきなり交わされる日常会話。
が、一瞬にして雰囲気がヤバくなる。
「はい。ではお帰りください」
「───今、なんとおっしゃいましたか?
 上手く聞き取れなかったもので、もう一度言ってくれませんか?」
「年をとると耳も遠くなるみたいですね。
 私はお帰りください、と申したのですが」
今ここに大きな氷があったらピシッっと一本亀裂がはいってるかも知れない。
いや、氷にかまわず岩でも背景の絵でも可。
「わかりました。それではバイト代として遠野くん借りていきますね」
はい?
「だめです。そのままさっさとお帰りください」
「・・・あそこにいる吸血鬼を放っておくわけにはいかないので帰るわけには行きません」
「そうですか。それならまずは」
「遠野くんのことは置いておいて」
「あの邪魔者を」
「どうにかするとしましょうか」
───はい?
あの秋葉とシエル先輩がタッグを組むなんてありえないと思ってたのに。
「そこの二人?私をどうにかした後はどうするの?」
「決まってるじゃないですか」
「私とシエルさんで決着をつけるんです」
ああ、あの二人はやっぱり仲悪いのね。
「それならいっその事、こういうのはどう?」
アルクェイドが言う。
「この三人で戦って勝ち残った者に賞品として志貴、って言うのは」
な、今このばか女、何言いやがりました!?
「なにい!?アルクェイド、何を言い出すんだ!」
「へえ、吸血鬼のくせに良いこと言い出すじゃないですか」
「わかりました。その話にのりましょう」
「さすが妹。話が早いわね」
「妹と呼ばないで下さい!私はあなたの妹ではありません!」
「あ、そっか。義理の妹って言葉になるんだっけ」
「そういう問題じゃありません!」
「良いじゃない。私としても秋葉みたいな義妹がいると退屈しないですみそうだし」
「あなたの妹になんか絶対なりません!」
「もう、照れちゃって。で、シエルはどうするの?」
「もちろん私ものりますよ。私が秋葉さんを妹にするんですから」
「あなた達、好き勝手言わないで下さい。私は兄さんだけの妹です」
ずいぶんピリピリした空気だ。
今の間に逃げるのが得策だろうか。
背中を向け、逃げ出そうと───
ちょんちょん。
肩をつつかれた。
ただそれだけのことなのに死刑宣告にも等しく感じた。
恐る恐るふりかえる。
そこには満面の笑みを浮かべたアルクェイドが。
「ってなわけだから、賞品としてラッピング!」
「え、な、何をするこのばか女ー!!!」

───と、いうように今に到ったワケで。
ちなみにその賞品としてラッピング、というのが今の上半身ぐるぐる巻きにした技の名前らしい。
アルクェイド、秋葉、シエル先輩の三人はまだ対峙している。
さっきより距離をじりじりとつめて、手を伸ばしたら辛うじて届く。
そんな距離で、最初に動いたのは秋葉だった。
急激にふくれあがったように見えた赤い髪がはじけるようなスピードで二人を襲う。
二人はそれぞれ逆の方向に跳んで避けた。
シエル先輩は避けたついでに手近な敵、秋葉に向かって空中から剣を雨のように投げ降らす。
それを鼻で笑うような表情で後ろに軽く跳んで避ける秋葉。
まるでそのタイミングを見計らっていたかのように、
無防備な背中をめがけてアルクェイドが爪を振りかざして突っ込んできた。
後ろからの気配を感じ取ったのだろう、秋葉の顔から笑みが消える。
秋葉は体を前に倒し、うつ伏せになると同時に横へと何回か転がった。
数瞬後れて秋葉が体をうつぶせにした所に大きな穴があく。
アルクェイドの馬鹿力がうんだ、拳圧によるものだ。
秋葉を追撃しようとアルクェイドがその身を起こそうとしたとき、とたん前方に飛んだ。
先程秋葉を襲った地面に刺さっている剣を越えた地点から前転の構えに入り、飛び込み前転を決め、立ち上がる。
アルクェイドが飛び込み前転で通った後には地面に剣で線が描かれていた。
そこで三人の動きが止まり、動くのは当たり一面を流れる風だけになる。
「思ってたより結構やるじゃない、妹も、シエルも」
「たしかに意外とやるようね。兄さんにつく虫だけはあるわ」
「やはりあなた達は人外の化け物ですね。タフです」
これは話をすると言うより口げんかか?
「「「でも───次で決める」」」
こういう時には意思がそろうのになあ、はあ。
しかし次にまた動き出したら、下手すれば誰かが死んでしまうかも知れない。
そんなことは嫌だ。嫌だけど、上半身がまったく使えない今、俺には何も出来ない。
いったいどうすれば───
その時、いきなり甘い匂いがただよってきた。
「甘い匂い?・・・な、なんだ・・・力が抜けてくぞ・・・?」
見れば三人もこの甘い匂いをかいで困惑しているようだ。
・・・だめだ。
まぶたがもう───重───く───て──────



「・・・!、ゴホッゴホッ!・・・鼻痛い」
「お目覚めになられましたか、志貴様」
薄ぼんやりと開かれた目の前にはこちらを心配している顔をした翡翠がいた。
「え、翡翠?」
唐突に視界がはっきりしていく。
上体を起こしまわりを見渡す。
ここは見慣れた部屋と翡翠が違和感無く存在できる場所。
「あ、あれ、なんで俺自分の部屋に?」
「それは───」
翡翠が教えてくれた内容によると、
あの時、風上から密かに琥珀さんがお手製のお香をたいたらしい。
効能は睡眠。
効果はもちろん、琥珀さんのお手製だけあってよく効いた。
まあそれでその場いた俺達が全員眠ってしまった所で、
念のためガスマスクを装着した、翡翠と琥珀さんが俺達を屋敷へと運んだらしい。
で、俺の鼻が刺すように痛いのは気付けにアンモニアを使用したためのようだ。
「そうか。ごめん。また俺のせいで迷惑かけちゃったね」
俺より秋葉やアルクェイドの方がいろいろと悪い気がするがとりあえず謝る。
俺が事の中心にいるのは確かな事だし。すると
「そんな事ありません!」
ものすごい勢いで翡翠に言われた。
「あ・・・いきなり大声を出して申し訳ありません・・・」
俺がさっきの勢いにあっけに取られている間に翡翠は続ける。
「でも・・・でも、志貴様が謝られるのはおかしいんです
 謝らなければいけないのは、私の方なんですから」
「え?」
「私が志貴様に朝をお伝えなければいけないのに、私は眠り続けてしまって」
「え、でもそれは翡翠のせいじゃなくて」
秋葉のせい、と言おうとしたのだが、
「はい、姉さんのせいです。ですが───」
「え、ちょっと待って翡翠」
「なんでしょうか」
「翡翠が寝てたのは秋葉のせいじゃないの?」
「それはどう言う事ですか?」
「いや、秋葉が、翡翠の目覚し時計に細工をしただの言ってたんだけど」
「それは初耳です。ですがその事はほとんど意味がなかったと思います」
「そうなの?」
「はい。いつも目覚まし時計がなるよりも二、三分早く起きてますし、
 姉さんの薬で深く眠されていたので、目覚まし時計が鳴っていても到底起きれなかったと思います。」
琥珀さんがどうやって翡翠に薬を使ったのかはわからないが、
あの人ならどんな手でも使ってくるから犯人は琥珀さんに違いないんだろう。
「私がもっと姉さんに気を配っておけばこんなことにはならなかったんです」
話すうちに翡翠の気持ちがどんどん沈んでいくのが手にとるようにわかる。
「私が・・・私が・・・」
たまらなくなって翡翠を抱きよせた。
「え・・・?」
聞こえてくる翡翠の戸惑い。
はじめは、翡翠は悪くないとか、悪いのは俺なんだとか言おうと思っていた。
でも、翡翠を抱きしめるとそんな言葉はすべてかき消えた。
彼女と俺の呼吸する音しか聞こえてこない。
俺と翡翠の二人だけの世界。
時すら俺達に介入できないような世界。
だからどれくらい時間がたったのかわからない。
ひょっとしたら一分にも満たないほど短い時間だったのかもしれない。
もしかしたら一時間を越えるほど長い時間だったのかもしれない。
俺の口から自然と言葉が流れ出す。
「落ち着いた?」
だから返ってくる答えも、ごく自然に返ってきた。
「はい」
そしてそのままごく自然に離れる。
先程の世界は日常の世界に戻るためにあった世界。
それ以上でもそれ以下でも無い。
未練が無い、と言えば嘘になるけど。
「・・・それでは私は朝に片付けれなかった仕事をしてきます」
それは翡翠も同じようで、彼女のどこか控えめな笑みが俺に気持ちを伝える。
そのまま彼女は部屋を出ようと俺に背中を向けて歩いていく。
「翡翠」
彼女がドアを開け、出て行こうとするところを呼び止める。
「はい、なんでしょうか志貴様」
もちろんやる事は決まっている。
朝に出来なかった事。
「遅れたけど、おはよう、翡翠」
彼女は満面の笑みで答えてくれた。
「おはようございます、志貴様」





翡翠がお辞儀をしながらドアを閉めた。
これでいつも通り。
「はー。でもなんだか疲れたなあ」
まあ、朝からあれだけ走り回ればつかれるわな、と一人納得する。
と。
部屋の中で黒い塊がこちらを見つめていることに気づく。
レンだ。
「あ、えっと・・・さっきの見てた?」
さっきの、と言うのはもちろん翡翠を抱きしめていた時の事。
レンはのそりと動き出し、とことことドアの前まで来て前足でドアをぺしぺしとたたく。
俺はベッドから降り、
「外に出たいのかい?」
とドアを開けてやる。
レンは一度俺のほうを見てから外へ出て行った。その後、
「結局、見てたかどうか聞けなかったなあ」
と一人ごちる。
まあしょうがない。
レンが黒猫の姿のときは本当に考えていることがわからないのだから。
けど、一瞬あった瞳が何かを企んでいるような瞳だったのは気のせいだろうか。
「あー、考えるのはやめやめ。俺もいつもの生活を満喫しますか」
と呟いて、この後のスケジュールを俺は考え始めた。
「ん?なんか忘れてるような・・・ま、いっか。それよりこの後どうしようかな」
外は良い天気だし何処かへ散歩するのもいいだろう。
翡翠の仕事を手伝うのもいいかもしれない。
どうしようかな?



「うふふふふー、窓から入るような不法侵入者にはこうですよー」
ぶすっ。
「ふふふのふー、あなたも不法侵入者なのでこうですよー」
ぶすっ。
「そして、ふふふ、私の作戦をのっとった悪い子にはこうですよー」
ぶすっ。
「さあこれからもっと・・・あら。見られてますねえ。
 見ちゃダメですよー?これから先はお子様には刺激がありますので。それでわー♪」
しゃっ、っと幕がひかれた。
「ふふふ、さあ私を怒らせた罪は大きいですよー?」
・・・合掌。



「ん・・・もう朝か」
窓から気持ちのいい光が当たっているのがわかった。
上半身を起こしベッドの上で光を体いっぱいにうける。
優しい風が黒いカーテンをなびかせた。
「んー、良い風。今日はいい天気だなあ」
自分の声がいつもより高く聞こえるのは頭がまだ回転してないからだろう。
「うーん、翡翠はまだかな」
のんびりと翡翠を待つ。
しばらくするとコンコンとドアをノックする音が聞こえてきた。
「失礼します」
言葉とともに入ってきて一礼する翡翠。・・・翡翠?
「え、き、君は誰?」
俺は思わずこう尋ねてしまった。
入ってきたのが髪の毛が少年ほどに短いひとだったから。
「何を言っておられるんですか、志貴さ・・・あ、秋葉様!?」
短髪の人は俺の方を向いて驚いている。
「え、秋葉!?」
おもわずばっと後ろを向く。
近くにあった黒いカーテンが体にかかってきたので手で払う。
「なんだいないじゃないか。驚かさないでくれよ」
短髪の人の方に向きなおす。
また黒いカーテンが体がかかってきたので手で払う。
そんなに風は吹いてないのに珍しいこともあるもんだ。
「で、君は誰なんだ?」
短髪の人は俺の言うことが聞こえてないように
「あの・・・あ、秋葉様ではないのですか?」
と、俺のほうをじっと見て言ってくる。
「あ、俺のこと言ってるの?」
コク。と頷く短髪の人。
「俺は秋葉じゃなくて志貴。秋葉は俺よりもっと髪が長いよ」
なんで俺と秋葉を間違えたんだろう、この人は。
「え、じゃ、じゃあ志貴様なのですか?」
「だからそう言ってるんじゃないか。ところで君は誰なんだい?」
短髪の人が一瞬固まる。
「・・・翡翠です」
───はい?
「え、でも翡翠はもうちょっと髪が長くてサラサラで・・・」
「今朝起きたら、こうなってたんです」
言われてみると確かに翡翠のように感じる。
服装もそのままだし、まとっている雰囲気も翡翠と同じだ。
「志貴様もお変わりになられてたんですね」
「え?俺が変わってる?何処が?」
しっかりと翡翠の時間が止まる。
「お気づきになられていないのですか?」
「あ、うん。全然わからないんだけど」
「まず、声がずいぶんお高くなられています」
「うそ」
朝に聞いたときと変わらない声の高さ。
頭がまだ回転していないんじゃ・・・って事じゃもう流せない。
なにせ起きてずいぶん経つんだから。
「うそではありません。次に髪の毛が長くなっています。
 先程ご自分で髪を触っていたので知っているのかと思いましたが」
「う・・・そ・・・」
俺が触っていたのは黒いカーテンで髪の毛なんかじゃない。
ほら、その証拠に頭のてっぺんから髪の毛をたどると───黒いカーテンをさわっていた。
ためしに引っぱってみる。頭がいたい。
「繰り返しますがうそではありません。
 さいごに・・・その・・・」
翡翠は何故か言いにくそうだ。
俺から視線をそらして顔を真っ赤にしている。
「え、一体何なんだよ翡翠、最後の一つはさ」
「最後の一つは・・・」
やっぱり顔を真っ赤に視線をそらしたまま翡翠は話す。
「志貴様・・・ご自分の胸元をごらんになってください」
「え、胸元?一体なにが・・・はい?」
今度は俺の時がかんっっぺきに止まる。
胸元を見て胸があるのは当たり前だ、だけどなんでこんな!?
俺の胸元・・・そこには綺麗な“女性の”胸があった。
ちなみにサイズは翡翠や琥珀さんと同等だろうと思われる。
それがブラジャー無しに男物のパジャマの下にある。
翡翠が視線をそらした理由もわかった気がする。
自分のものであると理解しても顔が赤くなっていくのは避けられなかったから。
「・・・」
翡翠の方を何かを懇願するような目で見る。
「志貴様・・・ご理解なされましたか?」
「・・・うん」
つまりのところ遠野志貴は───“女”になってしまったわけで。
「翡翠もだったんだよね」
「はい、さっき申し上げた通り、朝起きたらこうなっていました」
でもなにか違和感を感じるような・・・。
思い切って聞いてみる。
「ねえ、翡翠。翡翠はその・・・男に、なったの?」
翡翠の顔がこわばる。
「あ、ご、ゴメン!そんなワケないよね・・・あははは・・・」
翡翠の顔から涙がこぼれた。
そのまま翡翠の顔は真っ赤になり、立ったままうつむいてしまった。
「───そうです。私は男になってしまっていました」
「え、でも翡翠には胸が・・・」
そうなのだ。
さっき翡翠の服装を見たときたしかに胸があるように見えたのだ。
「───あれは詰め物です。綿を詰めたんです」
一瞬唖然とする。
「な、なんでそこまでして」
「───そうですよね。こんな事までしてるなんて馬鹿みたいですよね。
 でも───でも、私は私の体が変わろうと志貴様にはいつもの朝を迎えていただきたくて・・・私は・・・」
翡翠の髪が今は短髪なので、髪がその顔を隠すことなく表情がそのまま見える。
泣いている。
あの子が。
自分の体に変化があっても、それより俺の事を大事に思ってくれたあの子が。
「・・・失礼します」
あの子が部屋を出ようとする。
泣いたまま。
「待って、翡翠!」
ベッドから飛び出てドアノブに手をかけた翡翠の腕をつかむ。
「離してください!」
翡翠が逃れようと必死に腕を振る。
「う、うわっ!」
俺は必死で翡翠の腕にしがみついた。
今ここで、泣いている翡翠をただ行かせるわけにはいかないから。
しかし翡翠が大きく後ろに腕を振ったときに俺は翡翠の腕から手を離してしまった。
あまりに強い力に手が引き剥がされたのだ。
そのまま俺の体はベッドの方へ吹っ飛んだ。
なんで俺が吹っ飛ばされたのかは容易に予測できる。
俺は男から女になってしまったため、体重は減り、力も減ってしまったのだろう。
元々重くなかったほうだから、なおさら軽くなってしまったというのもあると思う。
それに比べ翡翠は、女から男になって体重が増え、力も増えたのだろう。
いつも一人でこの屋敷を掃除している彼女は重いものを運んだりもするから、
元々の腕力が結構あったのだろう。
だからなおさら強くなってしまったと思われた。
「かはっ・・・!」
いろいろ考えているうちにベッドの側面にぶつかり仰向けに倒れる。
背中を強打し、肺の中の空気が一気に押し出され、
涙腺はゆるんで目から涙が流れた。
「志貴様大丈夫ですか!?」
翡翠が俺の元へ駆け寄ってくれる。が、
目に浮かんだ涙でうまくその顔を見ることができない。
「ごめんなさい、私、男になってしまっているのを忘れて・・・」
翡翠は俺の傍らにしゃがみこんで話している。
俺は口を開くが、先程の背中の強打で肺が一時的に外の空気を受け入れてくれなくなったので、
つまり呼吸が上手く出来なくなったのでまともに話すことができない。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
翡翠はただ泣いて謝っているようだ。
「─か───、ひ──」
泣かないで、翡翠、と言いたいのだがまだ呼吸が上手く出来ないから上手く話せない。
はやく呼吸をちゃんとしないと、俺は話すこともできない。
それどころか、このままだと酸欠になってしまう。
しかしその間にも翡翠はただ泣いてあやまり続けている。
俺はそんな翡翠を放って置けなかった。
翡翠の首に腕をまわし、体に残っている力を総動員して翡翠に体を近づける。
「え・・・何を・・・」
そのまま引き寄せて唇を重ねた。
目にたまっている涙越しの揺れた光景に翡翠の驚く顔が大きく映る。
しばらく唇を重ねたままでいたが、空気をあまりにもとりいれる事が出来なかったため、
全身から力が抜けていき、翡翠の首に回していた腕もするりと外れ、頭が床におちた。
「志貴───様・・・?」
翡翠が心配してくれている中、ようやく呼吸がまともに出来るようになってきた。
「はー・・・はー・・・翡翠・・・はー・・・はー・・・」
ようやく出せた言葉で翡翠の名を呼ぶ。
「はい、なんでしょうか志貴様・・・」
翡翠は心配そうに答えてくれた。
「はー・・・ごめん・・・はー・・・ベッドに・・・横にならして・・・」
「は、はい」
翡翠は俺の肩甲骨と腰のあたりに手をそえ、軽々と俺を持ち上げてベッドに寝かせてくれた。
「翡翠・・・落ち着いた・・・?」
「・・・はい。申し訳ありませんでした・・・」
とてもすまなさそうに翡翠は言った。
「よかった・・・翡翠が泣き止んでくれて・・・」
男になっても翡翠はやっぱり翡翠なわけだから、泣いていてほしくなんか無い。
さて、あとはさっさと呼吸を整えないと。
「翡翠・・・立ってないで・・・ここに座りなよ・・・」
ポンポンとベッドの端の、中ほどの位置をたたく。
「あ、はい・・・」
さっきの俺をふっとばしたことをまだ気にしているんだろう。
おとなしく翡翠はベッドに腰掛けた。
その間にも俺は呼吸を整える。
ついでに手で涙をぬぐう。
「志貴様・・・大丈夫ですか?」
翡翠が心配そうに尋ねてきた。
「うん、もう呼吸も正常に戻ったから大丈夫だよ」
「そうですか・・・よかった・・・」
───これだけ心配してくれているとやっぱり嬉しいものがある。
「・・・私は───私は、志貴様の世話役失格ですね。
 本来お世話するべき志貴様に手を上げて・・・私がおささえするべき所が逆にささえられて」
───だからこういう言葉は聞きたくなかった。
「───姉さんに言って、志貴様の世話役から外させてもらいます。
 志貴様───本当にありがとうございました」
翡翠が立ち上がろうとする。
俺は翡翠の手をとっさにつかみ、おもいっきり引っぱった。
すると翡翠はバランスを崩し俺の上へ倒れてきた。
さっきの唇を合わせた時ぐらいに近い翡翠の顔。
真正面から翡翠の瞳を覗き込む。
「何をなされるんですか、志貴様」
翡翠の言葉と表情に力が無い。
それは例えるなら、何かをあきらめた者のような感じだ。
「なんでそんな事言うんだ、翡翠・・・!」
「先ほど申し上げたとおりです」
翡翠は表情を変えない。
「なんで!───俺は翡翠と一緒にいたいんだ!」
翡翠の表情が一瞬かわる。
「私だって、出来ればそうしたいです」
「なら!」
が、またあきらめた者のようになる。
「私は志貴様の世話役なんです。
 お世話すら出来ない世話役なんて───ましてや自分がお世話になってしまう世話役なんて、いる意味がないんです」
「違う!」
どんどん泣きそうになっていくが俺は気にせず言葉を続ける。
「違う!翡翠はそんなんじゃない!俺は翡翠にいっぱい世話になってきた!
 翡翠が朝起こしに来てくれるたびに、幸せを感じたし、
 どれだけ非日常に足を踏み入れていても、いつもの日常に戻ることが出来たんだ!」
「志貴様・・・」
「それに逆に世話されている、がなんだ!
 好きな子が困っているのを放っておけるかよ!
 俺は翡翠が好きなんだ!一緒にいるだけで幸せなんだよ!
 だから一緒にいたいって思うのはいけない事なのかよ!」
一気に言い放って口をつぐむ。
目には涙がたまっていて、ともすれば嗚咽が出てしまうだろうから。
目に涙を浮かべ、鼻をすすりながらも俺はじっと翡翠の目から視線をそらさない。
翡翠は、黙って俺と唇を重ねた。
しばらくの間、唇を重ねたまま翡翠と見つめあう。
そして翡翠が顔を少し離した。
唇は離れたものの、またすぐにでも重ねられそうなさっきまでの距離。
「落ち着かれましたか?志貴様」
「うん」
涙を手でぬぐう。
さっき俺がとった手段を翡翠はまったく同じように使ってきた。
だからだろう、翡翠の気持ちがよくわかった気がした。
「志貴様、本当に私はお世話役を続けさせてもらってよろしいのですか?」
「さっき言ったろ?───、一緒にいたいって」
「はい」
嬉しくて今度はぎゅっと抱きしめながら唇を重ねた。
と。
「あ、あの志貴様」
と言うために翡翠は唇を離した。
「ん?何、翡翠」
見ればなにやら翡翠はもじもじしている。
「あ、いえ・・・」
どこか翡翠の様子がおかしい。
「あ、あの!」
「どうしたの?翡翠、さっきからおかしいよ」
俺がそう言うと翡翠は顔を真っ赤にした。
それどころか、がばっと上半身を起こして、
「うー・・・」
とこっちをじっと見てくる。
「どうしたの?」
と、翡翠の手が交差していることに気づく。
「ねえ、翡翠。いまその腕どけれる?」
「どけれません!」
翡翠はこっちをじっと見たまま赤い顔で言った。
「あ、いや、どけなくても大体予想がついたから良いよ。
 ───なんせ俺は昨日まで男だったんだし」
俺の言葉でピクリ、と翡翠に反応が見られた。
多分、俺の予想は大当たりだろう。
俺も上体を起こして翡翠の顔を真正面から見る。
緊張しているのだろうか、どことなく呼吸が荒い。
「ね、翡翠」
「は・・・はい」
翡翠の返事がたどたどしいのが初々しい。
「しよっか」
「え、───んっ!」
翡翠にうろたえるヒマを与えないように唇をふさぐととも押し倒す。
ベッドの上に逆さに横になる二人。
左足の太ももにあたる硬い異質な感触。
「翡翠が俺の体でこんなにまでなってくれてるから───それとも俺とするのは嫌?」
唇をほんの少しだけ離して間近にいる翡翠の瞳を覗き込みながら問う。
「嫌だなんて・・・そんな事・・・無いです・・・」
今にも恥ずかしさのあまり消えてしまいそうな声で俺の視線から逃れるように顔ごと視線をそらして翡翠は答える。
「翡翠」
名前を呼ぶ。
翡翠の顔がまっすぐにこっちを向いた。
「ん・・・」
そのタイミングを逃がさないように唇を合わせる。
ぴちゃ。
俺が舌を入れていくと、翡翠は拒まずに受け入れてくれた。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
絡まる二人の唾液。
俺がすっと身を引くと唾液が糸になって二人の口をつないでいたがすぐに切れる。
口の中の余韻が頭をすこしぼうっとさせる。
「ね、翡翠、脱いで」
「あ・・・はい」
言われて翡翠はベッドに膝立ちしてしゅるりと服を脱いでいく。
どうにも俺にはこの服の構造がよくわからないので脱がせてあげることができないのだ。
翡翠が脱ぎ終わって、その体が良く見えるようになる。
確かに、翡翠の女性らしい胸も無くなっていて、
かわりに胸板という言葉がよく似合うような男らしい胸がそこにあった。
そして男の象徴とも言える、ペニスの部分は───
男になったと判っても恥ずかしいのだろう、脱いだ服を手に両手で前を隠している。
「やっぱり恥ずかしい?そこは」
隠している部分を指差して言う。
顔を赤くして翡翠は無言で首を縦に振る。
「まあいいか。そのまま隠してて良いから、ベッドにあおむけになって。
 背中がベッドに支えられているほうが安心するでしょ?」
やっぱり無言のまま翡翠はしずしずとベッドにあおむけになる。
もちろんペニスの部分は隠したままで。
そんな翡翠の体を俺は丹念に、やさしく舐めあげる。
初めはそうでもなかったが、だんだんと舐め続けていくうちに翡翠の吐息が少しずつ荒くなっていく。
そのままひたすら翡翠の体を舐めていく。
翡翠の体から余分な力が抜けていっているのがよくわかる。
そのせいか翡翠は目を閉じ、ほぼ完全に俺に身をゆだねている。
───そろそろかな?
両手を翡翠の手の間に気づかれないようにおく。
───レディー・・・ゴー!
一気に手を外へはじく!
翡翠の手は俺の手にはじかれ、ついでに翡翠の目が驚愕のあまり大きく見開かれたが気にしない。
後はこの服のかたまりをどけるだけ。
「ご開帳ー♪」
「し、志貴様!?」
翡翠がなにやら叫んでいるが気にしない。
あんな台詞を吐いた以上、いまさら止めるわけにはいかないのだから。
ごそっとのっている服のかたまりをどける。
「うわ・・・」
なんというか、まあ、あの・・・マジで───ご立派。
翡翠はよっぽど恥ずかしいのか横をむいて目を強く閉じている。
そっと翡翠のペニスに手をのばす。
「ひゃぅ!」
翡翠の体が跳ねる。
「・・・いや、そこまで感じてくれなくても」
軽く苦笑する。
よくみると翡翠のペニスの先端にうっすらと白い液がついていた。
なんだかここまで反応があると嬉しいものがある。
もちろん、その分いじめたくなるのはお約束だ。
舌で舐めるのではなく、先端や腹でとんとんとたたく。
「ひゃ、あう、ひゃぅ」
一回一回たたくたびに翡翠の体が小刻みに跳ねる。
───なんだか面白い。
もう少し続けてみる。
「はぁ、はひ、んー」
やっぱり良い反応を見せてくれる。
ここで一気に方向転換。
翡翠のペニスをパクッと、深く喉にあたるほどまでくわえた。
「ぁかっ!」
口の中のペニスが瞬間的に膨張する。
───やばい。
そう思って翡翠のペニスを口から出そうとする、が。
それより先に喉の奥に熱いものが流し込まれた。
「げほっげほっ!」
翡翠のペニスから口を外してむせる。
「ひどいよ翡翠。あんなにたっぷり出すなんて」
いじめたこちらにも責任があるような気がするが、一応抗議する。
翡翠は射精感にひたっていたがこちらの非難を聞いて、
「あ・・・はい、すみませんでした・・・でも」
「でも?」
「その・・・とっても気持ちよかったので・・・」
と真っ赤になって嬉しくなるようなことを言ってくれる。
と言うか翡翠の台詞を聞いて赤くなっていく自分を感じる。
「志貴様」
「え、なに───うわ!」
真っ赤になって下を向いていたら唐突に翡翠に押し倒された。
「え、なに、なんなの、翡翠!?」
男の翡翠に押し倒される女の俺。
どきどきするのはあたりまえだろう。
「次は私が」
「い、いや、いいよ、俺は」
自分から、しようとか言っておきながらじりじりとベッドを後ずさりする俺。
よく考えてみると女の体になってこんなことするなんて初めてなのだ。
翡翠を攻めていたときは自分が男だったこともあってなんとも思わなかったけど、
女になって攻められるのは、はっきり言って未知の世界としか言いようが無い。
「志貴様・・・なぜお逃げになられるのですか?」
「いや、だってなんか怖いし・・・ん!」
いきなり翡翠が唇を重ねた。そして、すっと唇を離す。
「大丈夫です。私にまかせてください」
「うー・・・それでもなんだか怖いよ」
「困りました。───それなら」
また翡翠が唇を合わせてくる。
しかも今度は向こうから舌を入れてきた。
ぴちゃ、ぴちゃと響くどこか妖しげな音。
その音と鼻息荒く呼吸する音が響く。
そんななか、翡翠が俺の服を脱がそうとしてきた。
「!」
それに気づいて翡翠から口を離そうとする。が、翡翠は逃がしてくれない。
逃げようと引けば引くほど翡翠はどんどん押してくるのだ。
そのうちに俺は抵抗をあきらめた。
しばらくして服が全て脱がされてしまった。
翡翠は俺の服を全て脱がし終えて、ようやく俺の口を開放してくれた。
そのまま翡翠は体を起こしベッドに横たわっている俺の体をまじまじと見ている。
見られている俺はたまったものじゃない。
右腕で両目を隠して翡翠の視線に耐える・・・恥ずかしい。
ごくり、と音がした。
少なくとも俺の喉からではない。
「志貴様・・・綺麗です」
「そんな事言わないでよ・・・恥ずかし───ぁん!」
翡翠が乳首を噛んで俺に喋らせてくれない。
そのまま舌先が胸をはう。
「ん・・・んぁ・・・くっ・・・」
俺は俺で喘ぎ声をあげないように耐えるので必死だ。
いくら女になったと言っても元男としてそんな簡単にひーひー言いたくは無い。
翡翠の舌が体中をはいまわっているのはなんとか耐えることが出来た、と思う。
翡翠にクスクスと笑いながら
「志貴様は全身が弱いのですね」
と言われはしたが。しかし、
「くぁぁ!」
とついに声をあげてしまった。
いわゆるあそこを、そっとなでられたのだ。
緊張していた体から力が抜けていく。
頭もぼおーっとしている・・・イってしまったのだろうか、俺は。
「志貴様のここ・・・もうぬるぬるです」
だから翡翠の言葉もどこかうつろな状態で聞く。
翡翠があそこをなでながらいったから体はビクビクと反応し、あえぎ声も出ていたが。
翡翠は俺の両足を手で支え股を開かせ、
「志貴様・・・いきます」
「えっ・・・?」
だから翡翠の言っていることがうまく理解できないんだって・・・。
あそこに何かが触れた。おもわず声がもれる。
そしてそれは、ゆっくりと体の中に入ってきた。
「はぁっ、はあぁぁぁぁぁぁ・・・・・・」
イメージは注射、だろうか。
体の中に入ってくるモノに集中しながらも力を入れないように力を抜いていく。
それを受け入れるため。
「く、くふぅぅぅぅぅ・・・・・・」
自分の中にかなり入ってきたモノが、入ってきたときと同じくらいのスピードで出て行く。
そしてまた同じくらいのスピードで入って、出てを繰り返す。
だんだん奥深くまで入ってきているのを感じる。
さっきの、あの翡翠のペニスが俺の奥深くまで入るなんて、自分の体を異常と疑ってしまう。
「はぁぁ・・・はぁぁ・・・はぁぁ」
だんだんと出し入れがリズミカルになっている気がする。
翡翠は何かを必死に堪えている様な顔をしながらもピストンを続けている。
「はぁ・・・はぁ・・・翡翠・・・」
喘ぎながらも翡翠を呼ぶ。
「はぁ・・・はい・・・しき、さま・・・なんで・・・しょう・・・か」
翡翠は声も切れ切れにピストンを続けながら答える。
「お願い・・・ちょっと止まって・・・このままで終わりたくない・・・」
俺の懇願を聞いて翡翠は名残惜しそうにピストンを止めてくれた。
「ねえ、翡翠。そこの、ベッドの端に座ってくれないかな?」
翡翠が俺の体の中に入っているペニスを抜く。
「ひゃう!」
俺はおもわず喘ぎ声を上げてしまった。
「なんですか?」
翡翠は言いながらもおとなしくこちらの指示に従ってくれた。
翡翠がベッドの端に座るとペニスが天に向き、強く自己主張しているのがよく見える。
「ねえ翡翠」
と声をかけながら翡翠の前に立った。
そのまま正面から抱きつく。
「ちょっと体をささえててくれない?」
といって翡翠の手を背中に回させる。
「あ、はい」
と翡翠はおとなしく俺を抱きしめてくれた。
「ありがと」
言いながら俺は翡翠のペニスに腰を沈めていく。
「ん・・・はぁぁぁ・・・ん・・・全部入っちゃった」
「志貴様?」
翡翠はわけがわからないと言った顔をしている。
「ごめんね、翡翠。ピストンの途中で止めちゃって。
 なんだかおあずけみたいで、かなりつらかったでしょ?」
ゆるゆると腰を動かしながら言う。
「でも・・・終わるときはぎゅっと抱きしめて、抱きしめられて終わりたかったんだ。
 ・・・翡翠を感じていたいから・・・」
「志貴様・・・」
「もう動いていいよ。翡翠・・・一緒にイこ?」
「はい・・・」
翡翠は言ってからしばらくゆっくり動いていた。
しかし、しだいにピストンが早くなっていく。
「はぁ・・・はぁ・・・」
俺は喘いでいた。よだれが口の端からながれているのも気にならない。
ピストンがどんどん激しくなってくる。
「はぁふ・・・はぁ・・・はぁひ・・・」
「くっ・・・!」
さらに激しくなるピストン。翡翠のペニスも大きくなって来ている気がする。
「あうあぅはうはふ!・・・んぐ!」
ピストンが激しすぎて途絶えなかった喘ぎ声がでなくなる。
かわりに出るのはんーんー、というくぐもった声と荒い鼻息だけ。
翡翠が唇をふさいだのだ。
二人の舌もごく自然と絡んでいく。
頭の中がどんどん真っ白になっている感覚。
これ以上ないってほど激しすぎるピストン。
強く、俺と翡翠は抱きしめあう。
「んんっ!!」
俺の中で翡翠のペニスがはじけた。
「んんーーっ!!!」
熱いものがドクドクと体の奥に送り込まれてくる。
体の中の翡翠のペニスがドクンと脈打つたびに熱いものを感じ、頭が真っ白になっていく。
五、六回ほど脈打って、翡翠のペニスはようやく静かになった。
翡翠と抱き合ったままベッドに倒れこむ。
意識が、遠のいていった。



───なんだかひどい夢を見た気がする。
むくりと上体を起こした。もう朝だ。
昨日は大変だった。
朝から秋葉に死ぬ思いで追い掛け回されたし。
結局、一連の騒動の後、気分転換のために俺は有彦の家に遊びに行った。
なんというか、こういうときの友のありがたさがよくわかった気がした。
さて。
もうそろそろ翡翠がカーテンを開けに来るころだろう。
コンコン、とドアがノックされる。
ほらきた。
ガチャっとドアが開く。
そこにいたのは翡翠───では無かった。
「あら、志貴さん、もう起きてたんですね」
「あれ、琥珀さん。今日は翡翠どうかしたの?」
琥珀さんが来るということは翡翠になにかあったのだろう。
「翡翠ちゃん、今日は志貴さんに顔をあわせられないって顔を真っ赤にして言ってたんですよ。
 ───志貴さん、いったい翡翠ちゃんに何をしたんです?」
真顔で聞いてくる琥珀さん。
「い、いや、それは誤解だ琥珀さん!お、俺は何もしてないって!」
「うふふ、冗談ですよ。志貴さんって引っかかりやすいですねー」
「あのね」
「翡翠ちゃん、なんだか変な夢見ちゃったらしくて。
 その中で志貴さんがいたんでしょうねー、きっと」
「へー。夢ねえ」
「私は夢を見てないんですけど、志貴さんは何か夢見ました?」
「夢?俺は・・・」
思い出した。
途端に顔が赤くなっていく。
「───ごめん、言えない。それに俺も、今日は翡翠に顔をあわせられない」
「あらあら二人して。同じ夢でもみたんですかねー。
 あ、そうそう、朝ごはん出来てますから、着替えたら降りてきてくださいね」
それでは、と着替えを残して琥珀さんは出て行った。
同じ夢───夢をあやつれるのは───夢魔───レン。
昨日のレンの瞳を思い出す。
あの何かを企んでいるような瞳を思い出した。
「・・・やられた」
ぼすっとベッドに倒れこむ。
どこかから子猫の鳴き声を聞いたような気がした。





おしまい、っと。






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あとがき。
ええ、制作時間、約一週間です。ぎりぎりです。大晦日までです、これの〆切。
おかげさんで細かいチェックなんて出来やしません。
へろへろんなって書きましたよ。
にしても、
後半の絡み部分は切り抜いて単品として出したほうがいいのかなあ。
むー。
ってか、初めて書いたな、18。
初めて、いうたら性転換もか。
ああ、それに初めてのtxt50k越え。
・・・はふー。
最後の琥珀さん、夢を見ていないのは単に寝ていないという話あり。
徹夜であの三人をイヂメてたんですね(笑)
さて。
キーワード、全て表現できたかどうかわかりませんがここいらで。
いろいろと感想、ツッコミおまちしてます。
でわ、しぷでした。

(2003 12/31 AM5:43)


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